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ヴァレリーと天沢退二郎のこと

ヴァレリー「一詩人の手帖」に

一作品は、必ず完成したものだなどということは絶対にない、というのも、その作品を作った人間が決して完成した人間ではないからであり、彼がその作品から引き出した力と鋭敏さとは、彼にまさしく作品を改良する才能を賦与するからであり、以下同様のことが続くからだ。 彼は、作品から、作品を抹消したり、作り直すのに必要なものを引き出す。自由な芸術家は、少なくとも、このようにものごとを見なければならない(『ヴァレリー・セレクション』上、pp.187-188)

という箇所があります。これを読んだとき、ふと天沢退二郎のことが思い浮かびました。天沢はヴァレリーの影響もあって、宮沢賢治テクストの推敲過程にこだわったのではなかったか、と。

 

天沢が書いた児童文学作品のひとつに『光車よ、まわれ!』というのがあるのですが、これが何というか、腰くだけな印象を受けざるを得ない作品になっています。出発はがっちりと設定が組まれたファンタジーなのですが、途中から同時代性の匂いが濃くなっていき、と同時に話が拡散していく、というか・・・よくあるつまらない作品と言ったらそれまでなのですけれども、天沢がフランス文学に明るく、また宮沢賢治の校異にこだわった人物であったという文脈をひっぱってくると、そうとばかり言えないのかなと直感的に思ってしまいます。ここにヴァレリーがどう絡んでくるのか、あるいは絡めることができるのか。興味は尽きません。

 

天沢の詩作や『作品行為論を求めて』、『夢魔の構造—作品行為論の展開』の検討も合わせて必要になってくるでしょうが、考察を深めていきたくなっています。