Darboゼミの出張所

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作家の身体感覚のこと

昨日、宮沢賢治研究会に参加しました。
Web例会は本当にありがたい。こちらは四国のさらに島暮らしなので。

さて報告者の小島聡子氏のお話を聞きながら考えていたのは、
文学テクストにあらわれる作家の身体感覚についてでした。

小島さんによると、賢治テクストの地の文は、多くの場合、「標準語」が用いるのだが、
ところが、そこには岩手方言が交ざっているとのこと。
(Ex.まるで、くらい、だからさ)
具体的な指摘から「確かに!」と思いました。さらっと読み流していたのが恥ずかしい・・・

それにしても、この点をどう捉えるのかは、論者によって様々なものになるでしょう。
論者の立ち位置が率直にあらわれるかもしれませんね。
言語学者にとっては興味深いサンプルになるでしょうし、
作品の完成度を整合性に求める人なら不純物に見えるでしょうし、
土地の固有性を重んじる人なら標準語と土地の言葉のせめぎ合いに、何らかの価値を見出すでしょう。

ならば作品を作者から切り離して読み解こうとするテクスト論者は?

今回の事例、ディスカッションのなかでは言葉だけでなく登場人物の振るまいにも見られるとの補足も入りました。
(Ex.西欧の設定なのに、ジョバンニは家のなかに入るとき靴を脱ぐ)

テクストにこのような作家の身体感覚に由来することがあらわれたとき、どのように処理するのか。
テクスト論の立場では矛盾、不整合という解釈はできず何らかの意味づけが求められるので、なかなか難しい。
しかも慎重に向き合わないと、テクストに切り離したはずの作者→作家を招き入れることにつながりかねない。
作者と作家の問題は難しいし面白い。
簡単に切り離して考えられるものではない。
しかもテクストという考え方があって、はじめて魅力が増すなあ。

そのようなことを思いながら、自分勝手に報告を聞いておりました。

(小島さん、ご報告ありがとうございました。)