Darboゼミの出張所

ウェブ版ゼミナール

映画『銀河鉄道の父』のこと

先日、映画『銀河鉄道の父』を観てきました。
いずれは論文やエッセイなどで取りあげたいところではありますが、
それは繰り返し観ることが容易になってから(かなあ)。

ひとまず初見で気づいたこと、気になったことをメモ書き程度で記してみたいと思います。

原作も読んだのですが、映画のほうがストーリーがシンプルになっています。
これはメディアの特性から仕方ないこと。
一度止めて見直すことを想定していない映画においては、小説と同じレベルの情報量を望むのは難しいですから。
(その代わり、視覚情報が追加されているので、総体としての情報量はどうかというと、どちらが多い/少ないは言いづらい。)

それによって何が生じているのかというと、気がついたのは以下の2点。

①父は看病を通じて息子と関係を深めようとする姿が、よりクリアになっている

この歪みは、賢治が重篤の状態となったとき、やはり率先して看病しようとする父に対し、母が自分も親なのだからやらせてくれと、ぴしゃりと述べるシーンで問題化されます。
(ただし中学時代の賢治を看病するエピソードは省略されている。くどいと判断された?)

②描かれる賢治は「文士」が軸。羅須地人協会での農村更生活動はあくまでサブになっていると言わざるを得ない

賢治の多面的な活動は、おそらくそれがあまりに雑多なため、絞り込まれる結果となったのでしょうか。たとえば教師としての賢治、石灰セールスマンとしての賢治については省略されています。
しかし賢治のエピソードがシンプルな分、彼の「自分は駄目だ、何もできない」という自己否定がどこから来るものなのか、やや不鮮明なものとなっています。
稼業を継ぐ/継がないで何度もやり合ったという台詞が差し挟まれるので、作品としては賢治の自己否定はそちらで回収しているものと思われます
また映画においては、法華経信仰に関しても一時の迷いという意味合いが生じてしまっています。
(それでよいのか・・・)

他に気になった点としましては、やっぱり宮沢賢治という作家において「雨ニモマケズ」の結びつきは強い!
タイトルは『銀河鉄道の父』なのに、作中で持ち上げられるのは「雨ニモマケズ」。
素晴らしい詩と評されます。
賢治は父にそう評価され、「はじめて褒められた」と発するわけですが、この「はじめて〜」は、従来なら国訳妙法蓮華経を刷って配ってほしいという遺言に対する父の評価に対するものとされてきたものです。
(ここでも信仰の問題に関する濃度は下げられている・・・)
もちろん作中において「銀河鉄道の夜」も引用されるのですけれども、印象に残りづらいです。

これだとタイトルは『雨ニモマケズの父』なのでは??